NO.4  イラク戦争で、日本は関が原合戦の小早川秀秋か

イラク戦争で、日本は関が原合戦の小早川秀秋か

小早川秀秋は豊臣秀吉の正室ねね(北の政所)の甥であり、秀吉の養子となった。
 1593年(文禄2)秀吉に実子、秀頼が生まれると小早川隆景の養嗣子に出され、隆景の隠居後、36万石を領する筑前国名島城の城主になる。
石田三成の19万石をはるかに上回る大国である。

 さて、秀家は関が原の戦(1600年〈慶長5〉)で、西軍に属していたが陰で東軍と組していた。
しかし戦が始まって、小早川軍は松尾山に陣取った後、動かない。
家康は松尾山の小早川秀秋に西軍の側面を突く様要請した。
しかし秀秋には三成からの誘いもあり、どちらにつくか悩み、兵を動かさなかった。

業を煮やした家康は秀秋のいる松尾山へ発砲を放った。
この家康の威しに驚いた秀秋は、とっさに西軍の大谷吉継に対する突撃命令を下した。
小早川隊は雪崩のように大谷隊に襲いかかり、これで西軍の命運は尽きた。
小早川隊は発砲した家康に対して刃向かうどころか、これにびびって家康に味方するほうに回ったのである。

このとき小早川秀秋の年齢は19歳。
まだ小僧であった。


さて、第2次大戦後、マッカーサーは「日本の精神年齢は14歳」と言った。

今回のイラク戦争で、開戦の1週間前、小泉総理はアメリカに反対するのかアメリカを支持するのか国民に対して明確に示さなかった。

そんなときに北朝鮮が対艦ミサイルの試射を行なった。
その後、日本国内に危機感が生まれ、「今、アメリカを支持しなければ北朝鮮の脅威を抑えることはできない」というアメリカ支持の声が大きくなった。
アメリカのミサイル防衛網を積極的にサポートする声も出てきた。
結局、日本はアメリカ開戦の支持に回った。


実は北朝鮮はアメリカとつながっていて、アメリカに依頼されて対艦ミサイルの試射を行なったのではないか、と疑う気にもなる。

ミサイル1発打たれて日本はびびって、アメリカ支持を決断したのか。

 


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