1997年8月の総評
政策の記述について
政策の記述が簡単すぎる。
たとえば,「生きがい雇用の確保・逆定年制を導入し、活力あふれる高齢社会」のような一行記述ばかり。これ以上深く考えていないのか。具体策も実行手順もない。これで優秀な官僚と対等に議論できるのか。さもなくば、これ以上のものが頭にあるのだが市民に対して出し惜しみしているか、出して説明する気持ちがないのか。
ホームページには紙面の制約もなく、あるなら出せるはず。読者をなめているとしか思えない。
政治家は何を提案しても官僚や他党から反対されるのだから、相当の理論武装をしないと勝てない。相手を納得させるだけの理論武装を持った政治家は誰か,を読者は知りたいのである。読者が納得しないレベルの政策提案では官僚を納得させられるはずがない。それで納得したら理屈以外の別の要素で政治を行っている、ということだ。それではいつまでも一般人に理解できない密室政治でしかない。
活動報告の記述について
これを書かない人が多い。書いても「XX会議に参加」というだけで、そこで何を発言し、何の結論を得たのかわからない。一般社会の会議報告書に比べようもない。参加しただけでは居眠りしているかもしれない。その会議では当人の参加に意味があったのか?いてもいなくてもいい人だったのか?そんな人を投票する必要があるのか?
また、「XX勉強会に出席」という1行記述の方もいるが、そこで何を学んだのか、出席しただけなのかわからない。こういう会議や勉強会も公費が出るのだろうか。
また「XX会であいさつ、スピーチ」という報告を証拠写真だけ付けている人も多い。何をスピーチしたのか不明。政治家というのは何をしている人なのか?
「会合に出て、”どうもどうも”とあいさつして握手しているだけではないのか」と一般人は思っているが、それが政治活動だと政治家自身も堂々と主張している人が多い。政治家というのは勉強会に出て勉強し、政治意見を固め、発表の場をつくり、意見を発表して賛同者を得るのが仕事ではないのか? あいさつするだけ、というのは「あの人は知り合いだから投票しよう」というレベルの有権者を集めたいだけではないのか。今後もそのレベルの政治が続くのだろうか。
成果の記述について
成果の記述を書く人が1人しかいない。「政治は一人の力ではなく、党の力で成果を出すのだから、成果をおこがましく書けない。」とも言えるが、党の中で当人がどのような役割を果たし、党として成果を得たのか書けるはずである。当人の働きの記述がなければ、党の人間なら誰でもよくて、頭数さえ揃えばよくて、当人でなくても他の誰でも変わりに立てばよい、と言えないか。
記述のしかたについて
会話調で2万文字以上の文を改行もつけず、だらだらと記述する人がいる。記載してあればよい、ボリュームを増やせばよいというつもりだろうか。こういう神経の人が会議で要点のわかる発言が出来るのだろうか。国会でも、テレビで長く映りたいだけの長話をしそうな気がする。
会議の質疑全部を長々と転記している人も多いが、全文掲載は構わないが要約も載せるべきである。改行もつけない長文を読者が読むとは思えない。読まない読者が悪いのか。
一般社会の報告書なら内容の前に、記述が読みにくいと言うだけでゴミ箱行きだろう。一般社会なら文章構成は新人のうちに矯正されるものだが。官僚出身の方も多く、文章の書き方は知っているのだろうから、つまりは読んでもらおうという気持ちがないのか。
企業に努めていた人の方が文章は整理されている傾向がある。
評論家が多い
文章の大半で現状の問題分析と現行政府の批判を語り、その対策となると書かないか、書いても「ガンバリマス」とか「住み良い暮らしを考えます」程度の人がいる。それは評論家であって政治家ではない。
政治家は目の前の行動を起こさねばならぬのだから、まずは対策案を持たねばならない。問題点の指摘だけして対策を持たない人に「ではあなたにお任せしましょう」と有権者は思うだろうか。対策もなく現行政府を批判するだけの政治家は、現行政府の点を下げて相対的に自己の点を高めようとするだけであり、問題の解決にはならない。それを足の引っ張り合いという。
問題意識をホームページに書くのは自由だが、対策が思い浮かばないならば「今のところ、私にも対策がないが検討中である」とか追記し、自分が対策を立てるという姿勢が政治家であろう。まだ対策がなく「住み良い暮らしを考えます」程度ならば、それは理念であって政策ではない。そういうものは政策欄ではなく理念の欄に書くべきであろう。