《韓国は在日済州出身者に詫びて島を返還すべき》
済州島は元々韓国人のものではない。 韓国は日頃から教科書、新聞等々で豊臣秀吉、伊藤博文云々言って、日本の悪行だと永遠と非難しているが、朝鮮人も独善的な野蛮人である。 例えば、元々済州島には朝鮮半島本土とは別民族が住んでいのを、島民を大量虐殺し島を奪ったのは 他ならぬ朝鮮王朝である。 更に半島人達は日帝撤退後、島での共産主義運動の高まりから島民に共産主義者のレッテルを貼り、再び島民達の大量虐殺の蛮行を行なっている。 韓国人達は襲われて逃げ出した済州島の島民に島を返すべきだ。
●済州島四.三事件 http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E3%83%BB%E4%B8%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=30630664
済州島四.三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日迄の期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。 南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍、警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。 またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。
事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、米軍の介入と北部、平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。 蜂起は朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、及び西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。 人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになった為、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑、粛清を行った。 これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。 韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、可愛らしい少女達を連れ出し、数週間に渡って輪姦した後に殺害した。
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日迄に3万人が、完全に鎮圧された1957年迄には8万人の島民が殺害されたとも推測される。 又、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された。
歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、当時の日本政府の防止策をかいくぐって新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。 韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止をやぶって朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。 日本の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが、四. 三事件の難を逃れようとした済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。 日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。 事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。 又、海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
朝鮮労働党が関係しているとされる上、犠牲者が余りにも多く、「反共」を国是に掲げ、軍事独裁国家であった韓国では責任の追及が公的になされていない。 また事件を語ることはタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。 (中略)
日本に居住している済州島出身の在日韓国、朝鮮人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている。
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■どうして、この様な蛮行が行われたか? おそらく、終戦直後から、朝鮮半島に残された日本人資産家の財産などが、朝鮮支配者層…役人や資産家の間で略奪するのが、当時、当たり前になっていたと考えられる。 そのせいで朝鮮軍や警察関係者のモラルが低下、略奪や暴行が当たり前の、汚ならしい集団、末端の方では単なる愚連隊になってしまっていたと考えられる。 済州島の島民はその犠牲者ではないだろうか…。 現在の朝鮮半島の支配者富裕層達は、戦後、残された日帝や邦人資産家の財産を奪い、それを利用して富を築いて来たのだと容易に推察出来る。 現在も残る朝鮮社会の根本的なモラルの無さは、そういった経緯によって出来上がったものではないだろうか。
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